善悪の知識の木 と いのちの木
                                                        2010 8/18



     (参考文献) ・ 「ファイナルクエスト」、リックジョイナー、生ける水の川、2000     ・ 「収穫」、リックジョイナー、角笛出版、2000
              ・ 「ニューエイジムーブメントの危険」、尾形 守、プレイズ出版、1996   ・ 「天国への冒険」、ジェシー・デュプランティス、イルミネイター、1998



  1. エデンの園の木:


  神様が造られたエデンの園には、さまざまな実を結ぶ、食べるに良い多くの木々とともに、「いのちの木」と、「善悪の知識の木(知恵の樹)」があった。 これらは、物質的、生物学的には、その実体が何であったか不明であるが、霊的にはほぼ一定の解釈がなされている。 アダムとエバは、神様に言われたとおりに、「いのちの木」からその実を取って食べて、エデンの園で永遠に生きるはずだった。「善悪の知識の木」の実を取って食べることは、神様によって厳しく禁じられていた。 ところが、惑わす者「サタン」が蛇((直訳)=光り輝く者)を通して(変装して)エバを惑わし、アダムはこのエバによって惑わされ、結局2人とも 食べてはならないと言われていた「善悪の知識の木」の実をとって食べた。
  このようにして、全人類に、(程度の差こそあれ、)”善悪の知識”、すなわち、”自分が神に成り代わって、神のように善悪を規定する(=すなわち、霊的高慢)”という 「原罪」の性質 が遺伝子の中に入り、彼らから生まれた全人類はのろいを受け、サタンの支配下に入り、悲惨な人生を歩むことになった。アダムとエバは、神様によってエデンの園から追い出され、「いのちの木」の実を食べることができなくなり、人の寿命が有限のものとなった。
  それどころか、この 人の原罪のゆえに、神様は、せっかく造られたこの天地万物を、惜しむことなく滅亡させる時を定め、永遠に続く全く新しい世界(=「新天新地」)を創造される。

  以上が、聖書の「創世記3章」による、人類の「堕罪」の経緯である。



  ・ 神様がなぜ、エデンの園に、わざわざ 食べてはならないという「善悪の知識の木」を植えられたかはよく分からないが、おそらく、アダムとエバが神様の命令を守って、その禁断の実を食べないということが、神様の彼らに対する誇りであったと思われる。(by.リック・ジョイナー) すなわち、人は、(ロボットではなく選択権を与えられているが、根本的には)主の御声に聞き従う者として造られたのである。 しかし、「惑わす者」の影響力は大きかった。もし、惑わす者がいなければ、黙示録20:6 のように、サタンが束縛された状態では「神の民」以外の(終末のさばきを生き残った)すべての人間も、千年間、罪を犯さないでいることができるほどである。

  サタン、悪霊どもは、「自分のおるべきところを捨てた堕落天使」(ユダ:6)であり、造られた当初から「真理が無い、初めからの偽り者」(ヨハ8:44)であって、この、アダムとエバへの誘惑と堕罪によって、神様からのさばきが言い渡されている。(創3:14、15) 醜く変貌され、次元のより低い天(「空中」(エペ2:2))に落とされた堕落天使たちであるが、元々天使(=御使い)として造られたので、ある程度は力を持っている。
  惑わされたエバ、そしてアダムも、互いに責任転嫁したが、主は彼らにも同様に さばきを言い渡している。惑わされたほうも、無罪でいる事はできず さばかれるのである。

  * ヒトの脳には、解剖学的に大きな性差がある。女性の脳は、左右の大脳半球をつなげる 脳梁が男性よりも太く、感性や芸術などをつかさどる右脳と 理性や計算などをつかさどる左脳との連結が強い。男性は、それらを区別して別々に処理する傾向にある。また、言語の脳内処理において男性では左脳のみの活動を示すが、女性は左右両方が活動していることが確認されている。(Shaywitz ら 1995)
  アダム(推定30歳)は惑わされなかったが エバ(推定15歳)は惑わされたという理由は、この辺にあるのではなかろうかと思われる。 芸術や預言、示し、神託などは、
よく吟味をする必要がある。(もちろん、聖霊様によらないものは論外であるが) また、神の霊による預言や、逆に、悪霊による占い師、巫女などは、どちらも圧倒的に女性の方が多いのは、霊的感受性が強いためと思われる。(* もっとも、右脳、左脳の機能には、いわゆる”右脳革命”で言われるほどの明確な区別は無いといわれている)


  ・ さて、この「善悪の知識の木」の実をとって食べた代償として、人の寿命が有限になった、男は労苦して糧を得るようになった、妻は夫に支配され 苦しんで子を産むようになった、などの人への直接的なさばきと共に、非常に厳しいさばき、すなわち、「この天地が滅亡して焼け溶けてしまう」(Uペテ3:10)という恐るべき結果をもたらした。
  なぜ、神様が産みの苦しみをして造られたこの天地万物を、いとも簡単に破棄されるのだろうか? 

  神様は、「聖なる」方であるので、ほんの少しの罪も見逃すことはできず、神様の前にはすべては裸である。そして、他の”神々”の存在 ・・・ 「原罪」が入ってしまった霊の存在 ・・・ を決して許すことは無いのである。そして、人間が置かれた地球も、宇宙も、すべて不完全なものとみなされ、天地万物の刷新を定められた。
  神様の前には、「生ける者はだれひとり義(=正しい)とは認められない」(詩143:2)、神様から見れば、「人の義はぼろ雑巾のようである」、そして「義人はいない。一人もいない」。(ロマ3:10) 最終的には、キリストの十字架によって贖われていない 原罪を持つ人間はすべて、主の御座の前で「最後の審判」を受け、サタン、悪霊どもと共に「燃えるゲヘナ」に投げ込まれることになる。


  ・ この「原罪」へのさばきの妥当性は、歴史の中にも随所で現れたが、実に、「終末の憤りの時」にはっきりと表される。 世の終わり(もうすぐであるが)の時に起こる事は、「反キリスト」による全世界の支配と、「にせ預言者」よる全世界への惑わしであり、本当のキリスト者にとっては大迫害である。
  「善悪の知識の木」の、”悪”とは「」、”善”とは「偽善」であり、どちらも同じ「根」である。 御子イエス様が十字架につけられたのは、異邦人のローマ兵らと、実に 同胞であるはずのユダヤの偽善の宗教指導者らによってであった。
  そして、終末の憤りの時における最終的な「悪」と「偽善」の現れは それぞれ、自分を”神”とし 主に対し積極的に反逆する「反キリスト」(黙13:1)、反キリストを拝ませ 全世界をしるしをもって惑わす「にせ預言者」(黙13:11)、としてクライマックスに達する。これらの悪に対して、主ご自身が直接さばきをなされる。 このような「原罪」との最終的な対決の構図が、神様によって、世の終わりの時に用意されているのである。


  これは、「原罪」の性質を持つ者が(誰でも) 絶大な権力を与えられて、全世界を支配するとどうなるか、・・・ 全世界は破滅する、という、主のあかしである。 (* 神無き政治の共産主義は、必ず 反キリスト的独裁体制となる。 子供は教えなくても罪を犯す。これといって傷の無い、ただし未成熟であった、ローマ皇帝ネロ・カエサル(* ヘブル語アルファベットに対応する数字の総和は 616 (六百十六)であり、反キリストの類推の一つ。 世の終わりの時には、その和が 666(六百六十六)となる人物が「反キリスト」として現れる)。
  赤ん坊が世界を支配すると、世界は破滅する(by.フロイト)) → (1)ネロの犯罪性




  2. 「原罪」のその後の経過:


  アダムとエバが「善悪の知識の木の実」を食べた後、最初にしたことは、”自分を見ること”であった。そして、互いに相手を見て、”恥ずかしい”と思った。(恥意識
  次に、神様から離れ 隠れるようになった。(罪意識: 3:8−10) さらに、神様から問われた時、互いに自分以外の相手が悪いと答えた。(裁く心、怒り: 3:11−13) ・・・ 否定的な自己言及、相互言及

  ・・・・ 「犯罪者」とは、本質的に、人生に対し”負の判断”を行なう者である。 原罪は他のさまざまな罪を引き起こしていくが、その大元は、自分を否定的に見て(自分を愛していない(*))、すべての情報を否定的な形で 自分にフィードバック(**)することにある。多くの犯罪者は自分を嫌悪している。 また、怒りとは、多くの場合 自分自身に対する怒りである。

  ”不安”にさいなまれる人たちが この世の権力を手にしてしまったがため、歴史上最も残虐な出来事が引き起こされてきた。(サウルの ダビデに対する”ねたみ”と 自分の地位を脅かされる”不安”、 ドミティアヌスの兄ティトゥスに対する”ねたみ”、 ヒトラーの”怒り”の発作、 イワン雷帝やスターリンの”猜疑心”、など) ”不安”は、善悪の知識の実のひとつであり、自分に目を向けさせるものである。
   しかし、真のへりくだりは、神に目を向けることである。 罪の本質は、キリストにより頼まずに、自分で何かをしようという性質だからである。

  * 「あなたの隣人を自分として愛しなさい」の「自分(self)」とは「真の自己(naphsha・アラム語)」を意味し、人間は彼の”自己”をも愛さなければならないことを言っている。自分を愛することを知らない人間は、隣人を愛することはできない。

  ** 不完全性定理や デジタル発振回路などが、(物質的な)自己・相互フィードバックの形態であり、この原罪についての自然啓示となる (→ 7.罪人と神6.偽り者と原罪



  善悪の知識の”濃度”は、遺伝された分量、および、生活する環境要因によって、人によりその程度が異なると考えられる。人がこの地上で思い、行なうことは、その人の霊にすべての履歴が残る。(「心の貧しい者は幸い」=「(自分のエゴに乏しく)神無しではいられない へりくだった人は幸い」(マタ5:3))

  礼拝は、神様との交わりであるため、アダムとエバの時代から常に行なわれてきた。(夕拝(創3:8)) 本来、人は、神様を礼拝するように造られている。(世が刷新された後の 天の御国では、祈りや賜物の働きはもはや必要ないので廃れる(Tコリ13:10)が、愛と信仰と希望による「礼拝」は永遠に続く) 人類に罪が入ってからも、人々は神への礼拝を続けていたが、神様との会見のために、罪のためのささげものが必要となった。

  アダムの子のうち、兄のカインは ささげものに対する主のご判断から、ねたみによって弟のアベルを打ち殺した。カインが正しい方法で主へのささげものを持って来なかったからである。少なくともこの時点で、「原罪」はカインの方に より多くあったと思われる。 一方、アベルは、遺伝の量の少なさに加え、「羊を飼う仕事」をしていたので、いつも従順な羊たちを見ていた その環境要因から、彼の霊性は、羊のように従順な性質に変えられていたと考えられる。(見ること=所有すること
  また、カインの子孫レメクは、さらに悪い性質を色濃く受け継いだと思われる。 ただし、その子ら、ユバル と トバル・カインにそれぞれ、音楽と金属加工の「職業」が与えられているので、罪の性質があっても労働は可能であり、さらに、それぞれの分野で”新しい文明”を開拓する使命を担っていった。これは、神様から離れて成長した”文明”の象徴である。

  この「原罪」について、古代における最も象徴的な出来事は、「バベルの塔」であろう。
  ノアの洪水後 隆起してできた シヌアルの地(=現在のイラクあたり)に集まり、そこに定住した人々は、ハム系の猟師ニムロデが支配するバベル王国のもとに、神の領域である天まで届く塔( ・・・ 当時はそのように考えられていた!)という ジグラット(”高い峰”(Ziggurat、シュメール語?)の意)を建設した。これは、神に反抗する、”人間至上主義”の典型である。 そして、彼らの心をすべてお見通しの主は、ただちに 裁きを下し、人々は言語が混乱(=バベル)して 互いに意思疎通ができなくなり、世界中に散らされていった。

  (* ”神無きイデオロギー”であっても、人は何らかの”神”を崇拝していくものである。 ニムロデとその母は、後に、神格化され、”母子神崇拝”の流れに発展していった。(アシュタロテ-バアル、・・・、マリア-キリスト) 共産主義の代表者(書記長)も、いつのまにか絶対権力者になる。)




  3. 教会における”善悪の知識の実”:


  意外や意外! キリストの御体であるはずの「教会」においてこそ、もっとも邪悪なタイプの”悪”が現わされてきたのである。

  エデンの園でサタンが惑わした偽りは、”神無しで神のようになれる”というものだった。 シヌアルの人たちは、自分たちの力で塔を建てることにより、天にまで届くことができると考えた。しかし、彼らの本当の動機は「我々は、・・・名をあげよう」(創11:4)というものだった。 これは、ルシファーの堕落の言葉と同様である。(イザ14:13−15)

  さて、3世紀に、キリスト教がローマの国教になった後、「霊的な礼拝」や「自分を捧げる」といった教会の働きの多くが、”政治的な活動”がそれに取って代わるようになった。この”制度的教会”への変化に伴い、”自分の力で塔を建て、名をあげよう” という考え方が教会内に入り込み、しだいにそれが、教会の本当の幻であるかのように幅を利かせていったのである。すなわち、人々は、剣、十字軍、異端審問所、拷問によって、地上に「神の国」をもたらすことができると考えるようになった。 歴史学者たちの推計によると、真の信者でありながら異議を唱えたがゆえに、5千万人以上の人たちが”異端者”としてこの「」によって惨殺されたそうである。

  また、プロテスタントにも”制度的教会”ほどの規模でないにせよ、同様の傾向がある。 世紀を越えて語り継がれる ある宗教改革者が、飢え死にしかけているアナバプテストの信者を”異端”として見殺しにし、晩年はユダヤ人に対して迫害を加える立場に立つなど、”制度的教会”と同じ過ちを犯した。 そして、言葉が混乱されたバベルにおける神の裁きのように、現在、2万以上の”教派”が存在している。

  このような変化は、終末における「大淫婦」としてクライマックスに達する。(黙17:6)
  そして、この「にせ預言者」へのさばきは、「反キリスト(=獣)」へのさばきと同様のレベルであり、主の目から見て、真っ向から主に反逆する「反キリスト」と同等の”邪悪さ”を持つものとされている。それよりも重いさばきにあうのは「誘惑者(=サタン)」しかいない。それほど、忌まわしい者である。 反キリストよりも、にせ預言者が中心となって、本当のクリスチャンを迫害するのである。 尚、「終末のにせ預言者」にはある程度のサタン的な”しるしと不思議”が伴うので、聖霊様による「奇跡」と区別するために、「実」を見て見分ける必要がある。敵は、神様の真似をしようとするが、「愛」については真似ることはできない



  使徒パウロは自身のことを、殉教直前の時点で、最終的には「罪人のかしら」であると告白した。(「使徒の中で最も小さい者」、「あの大使徒たち(=にせ使徒)に少しでも劣っていると思わない」 → 「すべての聖徒たちのうちで一番小さい者」 → 「罪人のかしら」) これらの言葉は、一般にはパウロの段階的な”へりくだり”と考えられているが、実は、彼にとってそれが事実だったのである。(by. リック・ジョイナーが天上のパウロ自身に聞いてきた事柄) パウロは、「パリサイ人の中のパリサイ人」、「律法については非難されることの無い者」であった。しかし、これがかえって 本当の主の民 = キリスト者たち を最も(間違った)熱意をもって迫害するものであった がゆえである。(* ただし、パウロは天国の玉座に座っていた。彼ほど、十字架を負う人生を歩んだ者はいなかったからである)

  また、イエス様は、彼を受け入れなかった カペナウム、コラジン、ベツサイダなどの町々に対し、なんと、ソドム、ゴモラ、ニネベ(アッシリアの首都)よりも、さばきの日には重い罪に定められると言われた。これらの宗教に熱心な善良な町々が、歴史上の典型的な邪悪な町々よりも厳しくさばかれると言われたのである! 「多く与えられた者は、多くを求められる」という原則による。( ・・・ 「右も左もわきまえない十二万以上の人々を惜しまないでいられようか」: ヨナが、ニネベの悔い改めによりさばきが回避されたことに不満を持ったとき、主が言われた言葉) このようにして 彼らは、「律法によって極端に罪深い者」となった。


  「イサクとイシュマエル」、「ヤコブとエサウ」、「ダビデの前にサウルが」、・・・・ 「先の者が後になり、後の者が先になることが多い」、「兄が弟に仕える」

  このような”逆転現象”は、善悪の知識の実が教会に入っていることによる。 主は、”悪”と全く同様に、”偽善”を忌み嫌われるのである。 昔は、ユダヤ人がキリストを殺したが、今は、「律法について非の打ち所が無い者たち」(しかし、実は、”罪人” ・・・ 裁くその人が同じことをしている)が、教会に臨在されるキリストを殺しているのである。
  悪霊は、罪を足がかりにして働く。 したがって、極端に保守的な教会や、反カリスマ的な教会(聖書に書かれてある「恵み(=カリス)」を部分的にしか認めず、制限するもの)、(必要最低限のレベルを超えて)権威・秩序を強調しすぎる教会、カルト的な、あるいは、律法的な教会では、聖霊様が臨在される代わりに ”悪霊”どもが徘徊することになる。(病の霊、精神病の霊、姦淫の霊、支配・服従の霊、非難・中傷・作り話・うわさ話・さばき・告発の霊、・・・ 教会はお化け屋敷か?:  特に、”告発”はきわめてサタン的なものである(黙12:10、ヨブ1:6−など))


  キリストの十字架の贖いは完全
である。それは、十字架にかかられた方が、神のひとり子だからである。律法は、キリストの十字架によって完全に成就した。 そして、多くの場合、これらの律法主義的な誤謬は、「キリストの十字架の贖い」を不完全なものとみなすことが原因となっている。これこそ、神への冒涜である。

  ex) 教会に聖霊様が臨在しておられるかどうかは、(上からの)平安があるか、喜びがあるかで一通り見分けることができる。 神様は、永遠に生きておられる方であり、いのちと喜びに満ちた方だからである。 一方、サタン・悪霊どもは、永遠に地獄で苦しめられることが運命付けられ、そのことを知っているので、平安が無い。(「悪者には平安が無い」)

  ・ 筆者が所属したことのある、地方の保守的な”福音系”の教団では、癒しや悪霊追い出しなどのカリスマ信仰(聖書に書いてあるのに!)を教理的に否定していた。ある時、筆者を含め、”(隠れ)カリスマ”の信者は、教団の総会でつるし上げに遭った。その霊的雰囲気は、”制度的教会”ほどではないにせよ、非常に悪いものである(批判、告発、反カリスマなど)。 因みに、職場などの ノンクリスチャンには癒しが多く起こったが、教団内の教会では一つも起こらなかった。 かなり後に、その地域は大地震に見舞われた。

  ・ 一時カルト化して問題となった”東○キリストの教会”に所属していたある姉妹は、次のようにあかししている。以前ほどは律法的ではなくなったものの、教会に対して非難、中傷が続いて多くの信者が離れ去り、残っている人々も”教会を愛しているか”と尋ねたり、あるいは、聖句をもって厳しい言葉を言い、教会の雰囲気は平安が無く、ガンにかかる人や突然死する人が何人もいて、病気になる人が多かったそうである。(彼女とその夫は、別の教会に転会し、現在は満たされた教会生活を送っている。)




  4. いのちの道を歩き続けること:


  「彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。 「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。 神であられる主、万物の支配者、 昔いまし、常にいまし、後に来られる方(=時間を超越した方)。」」(黙4:8)


  天国は決して退屈なところではなく、常に新しい「いのち」が流れ出る所である。 「父なる神」の御座の周りを飛び回っている御使いたちが、常に、「聖なるかな」と叫び続けるほどに、「いつも新しい方」である。 なぜなら、その御使いたちは、彼らが造られてからこのかた、父なる神から発せられる 今までにない新しい栄光を 周回するたびに垣間見て、そのたびに驚きのあまり「聖なるかな」と叫び続けざるを得ないからである。

   * 翼をつけた御使いたちは、御座の周りを飛び交いながら、賛美の歌を歌い、『大いなる神、主!』と声の限り叫んでいました。彼らは、御座の周りを一回りするたびに、神を誉めたたえていました。御座を一回りするたびに、今まで一度も見たこともないような角度から神の御姿を見られたからです。そして、彼らは、『聖なる!聖なる!聖なるかな!』(黙4−8、イザ6−1〜4)と言って、自分が見た神の御姿を言い表わします。それほど、神はとてつもなく大きい方です!。御使いは、自分が造られたときから神の御座の周りを飛び交っているのに、それでも、飛び回るたびに、神の御性質、愛、その栄光に輝いた御姿を新発見するのです!。
  (by.「天国への冒険」p150〜151、ジェシー・デュプランティス著、イルミネイター)

  また、この地上においては、主の栄光を知ることはごく限られ、その片鱗を知る程度でしかない。しかし、神の人 モーセは、(主の大いなる奇跡が起こった直後でも)常に、主の栄光を見たいと願っていた。
  人の霊が、究極的に到達できる霊的な頂上は、「御父の無条件な愛」の園であり、ここに「いのちの木」がある。(by.「ファイナルクエスト」p36、リックジョイナー、生ける水の川)



  「いのちの木の実」は、アダムとエバが永遠に生きるために 定期的に食べなければならないものだった。また、永遠の天の御国にあっても、朽ちない「新しい体」が与えられても、定期的に食し続けるべきものである。(黙22:2)

  この地上にあっても、いのちの道に歩み続ける秘訣は、救い主のみを愛し、その栄光をただひたすら求めることである。 ”バベル”のように、自分の名を上げるためにしたことは、いずれ最悪の恥辱をもたらす。しかし、救い主への偽りの無い愛と、その聖なる御名の栄光のみを願ってしたことは、主の永遠の御国の境界をさらに広げ、その人にとって究極的にはより高位の座が備えられる。地に属する事柄に思いを向けてはいけない。
  そして、主が与える重荷を自分で背負うならば、主が共にいてくださり、その重荷を背負ってくださる。主と共にそれをするときにのみ主の働きを全うすることができる。(by. ファイナルクエスト」p115、116、)

  イエス様が地上におられた時に表された力は、神の力のほんの一部に過ぎないものだった。それは、主が、力ずくで人々を信仰に導くことを望まれず、逆に、「主の愛」によってさせたかったからである。もし、イエス様が、指一本で山々を動かしたならば、おそらくすべての者が主をひれ伏して拝んだに違いない。しかしそれは、主への愛からでも、真理を愛するという心からでもなく、ただ主の力を恐れてに過ぎないものだったはずである。 主を愛し、真理を愛するという動機で、主への従順を喜びとする者となってほしい、これが、主の願いである。

  「愛」をまず第一に求めるべきである。 そして次に、「信仰」を追い求めるべきである。信仰が無くては主イエス様を喜ばせることはできない。 ただし、「信仰」とは、単に主の力を理解することだけではなく、「主の愛」と、その愛に根ざした力とを理解することにある。信仰は、何よりも、「愛」に深く結び合わされていなければならない。人が他の人を愛するために信仰を求めるときにのみ、主はその力をゆだねてくださる。(by. 「ファイナルクエスト」p166)

  最終的には、天国における地位は、(霊的、物質的の両方について)この地上でゆだねられた賜物にいかに忠実であったかによって決定される。「多く与えられた者は、多く求められる」の原則による。




  5. 終末の危険について:


  「「・・・あなたの来られる時や世の終わりには、どのような前兆があるのでしょう。」 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。」」(マタイ24:3、4)


  終末の時の前兆として、まず初めに、人を通しての”惑わしの霊”が働くことが予告されている。

  特に、1960後半−70年代にアメリカで流行した”ニューエイジ・ムーブメント”や、1970−80年代の日本におけるUFO・超能力ブーム、80後半−90年代前半の気功ブームなどは、これらの延長線上(=同じ”惑わしの悪霊”)にある。
  ニューエイジ・ムーブメントは、元々 アメリカの反戦運動から発し、平和と協調をスローガンとする思想的潮流を もたらし、ドラッグ文化やヒッピー、自然回帰、エコロジー、フェミニズムなどを生み出した。
  これらは、一見 無害なテーマ(健康食、フィットネス、瞑想、ヨガ、リラクゼーション療法、催眠術、心霊療法、積極思考・可能性思考(願いを実現する方法)、占 い、心理学、自己啓発セミナー、水晶ペンダントなどのグッズ、UFO、アニメ、ファミコン、音楽療法、アルファ波、マインドパワー、気功、健康生活プログラム、・・・)に見え、宗教色を無くして大衆が抵抗なくその流れに入っていくようになっている。
  また、キリスト教会やクリスチャンにも影響を与え、@ イエス・キリストを抜きにして地上のパラダイスや自己実現を目指すようにさせ、A 聖書やキリストを他の諸宗教と同じレベルに置いて思想統一させる、といったような、「善悪の知識の実」= 「人間にある最も根本的な罪の性質 = 原罪」 を足がかりにして悪霊が働く種類の惑わしである。 そしてこれらは、最終的に、それぞれ @ 武力で世界支配して、神に成り代わろうとする「反キリスト」、 A エキュメニカル運動のように 世界中の宗教を統一(「大バビロンの極度の好色(=霊的姦淫)(黙18:3))して、反キリストを拝ませる「にせ預言者」に発展していくものである。

  クリスチャンが受けやすいニューエイジの霊的影響については、聖書から離れる傾向(神道などの)他宗教との行き過ぎたかかわり、みことばに立たないいやし(心霊療法、念力、瞑想法、十字式健康法)、自己実現を最重要視した自己啓発や可能性思考、オカルトの影響を知らずに受けて悪霊に利用されることが挙げられる。 さらに、その反動で、 聖霊様の現れに対する行過ぎた警戒、聖書の超自然的な領域への消極性あるいは否定、知的なものを求めて聖書を越えてリベラルの影響を受けてしまう危険性、 などが生じる。このようにして、キリスト教界が分裂し、互いに非協力、無理解となり、またニューエイジャーを敵とみなし福音を宣べ伝える対象としない傾向、などの サタンの策略にはまってしまうのである。
  ここに、聖書のみことばに堅く立つことと、霊を見分けることの両方が必要となってくる。→ 2. 霊の見分けについて、 (1)終末の危険

  また、敵に取られてしまった各テーマを、神の側に取り返して、神様からの恵みとして勝ち取っていく働きを、クリスチャンが行なっていく必要がある。( ex) すでに「賛美」、「いやし」、「預言」などの分野で取り返してきている)



   「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日(=イエス様の再臨の日)は来ないからです。彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。」(Uテサ2:3、4)

   「「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。私から離れていけ。」」(マタ7:23) ・・・ その時現れる 大ぜいの にせ預言者たちのグループへの宣告「実」を見て見分ける

   「「わたしの名を名乗る者が大ぜい現れ、「私(=イエス)こそキリストだ」と言った上で、多くの人を惑わすでしょう。」」(マタ24:5) ・・・・ (注) 彼らが、”イエスこそは確かにキリストだ”と言っても、彼らが偽り者であることに変わりがない、という意味。


   「ただ、あなたがたの逃げるのが、冬や安息日にならぬよう祈りなさい。」(マタ24:20)

   「しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」(ルカ21:36)

   (祈りではないが)「(霊的に)目を覚ましていなさい。」(マタ24:42)


  全世界のリバイバルが終わった後の、終末の時には、「反キリスト」は「海から」(海=異邦(おそらく 再興した共産ロシア+EU10ヶ国(=10本の角を持つ獣、ロシアは獣の本体))から)、「にせ預言者」は「地から」(地=イスラエル、あるいは、全世界のキリスト教会(バチカンを中心とする?)から)出現する。(黙13:1、13:11) そして、再建されたイスラエルの(第三)神殿、および、全世界のキリスト教会において、汚れた捧げものが捧げられ、「荒らす憎むべきもの」(=”反キリストの像”)によって それらの聖なる宮が汚されることが予告されている。このとき、クリスチャンたちは山(荒野)へ逃げるように語られている。

  また、本当の(新生している)クリスチャンに対する迫害は、この3年半の「憤りの時」に、クライマックスに達する。 終末の”大バビロン”(= おそらく、その時 堕落しているエルサレム)では、「歴史上のすべての聖徒たちの殉教の血が見られ」(「黙18:24) 、その程度は、「迫害の期間がもう少し長ければ 誰も救われる者がいない」(マタ24:22)ほど ひどく激しいものである。終末の迫害では、迫害があまりにも激しくなると、信者が棄教する危険がある
  それゆえ、クリスチャンは、これらのすべての災い(天災も含む)を回避できるように、あらかじめ祈りなさい、また、(にせ預言者の偽の”しるし”や”不思議”を見ても)「惑わされないように」、そして、「剣で立ち向かうことをせず」に 「逃げなさい」と、主イエス様自らの みことばで 強く勧められているのである。(マタイ24章)

  そして、地上のすべてのクリスチャンの勢力が滅ぼされた後に、主イエス様の再臨が起こり、イエス様ご自身の剣によって、「反キリスト」と「にせ預言者」へのさばきが行なわれるのである。そのさばきは、「生きたまま硫黄の燃える火の池に投げ込まれ」(黙19:20)るほどに重いものである。このようにして、「悪」と「偽善」への最終的なさばきが行なわれる。
  また、キリストを否定して 反キリストを拝んだすべての人々への最終的なさばき(=「第7の鉢」のさばき)は、「悪霊どもによる無制限の憑依(ひょうい)」であり、それは、滅びが運命付けられている悪霊どもと同じ霊的状態になるためである。(黙19:17、18)
    → (参考) 終末の幻の構成


  * ”艱難 前 再臨説”という”にせ教理”は、出所があまり良くない。1830年に(預言者ではない)教会の一婦人(スコットランド出身のマーガレット・マクドナルド) が見た”幻、啓示、預言”を、良く吟味もせず何人かの神学者(エドワード・アーヴィング、ジョン・ダービー、後に、スコフィールド)が世 界に宣伝したもので、有名な説教者においても賛成反対が分かれ(賛成:スポルジョン、ジョージ・ミュラー、チャールズ・フィニーなど、反対: ジョン・ウェスレー、ジョナサン・エドワーズ、マシュー・ヘンリー、など)、現在の終末論においても、教会・信者を生ぬるくする教えであり、みこ とばから解釈不能の”苦い根”になっている。(by. リックジョイナー・『収穫』(角笛出版) p286、287 参照)



   「あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。」(黙3:10)

  また、終末の試練(ここでは”誘惑”と言うよりは”試練”、”艱難”のこと)から守られる教会は、全地の7つに分類された異邦人教会(黙2、3章)のうち、フィラデルフィヤ教会だけである。
   ( → 異邦の7つの教会
  フィラデルフィヤとは「兄弟愛」の意味であり、また、テサロニケ教会は「兄弟愛」によって特徴付けられる教会である。(Tテサ4:9) 神様を愛することは、具体的には兄弟をも愛することである。(Tヨハ4:20、21) これは、「いのちの木」の生き方である。兄弟を愛することによって、「神の愛」が全うされるからである。




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